12月6日放送の『爆報!THE フライデー』で伝説のパリコレモデルの
山口小夜子12年目の真実について放送されます。
番組では、プライベートを全く明かさず、謎に包まれた山口さんの死因を調査。
また生前最後に撮ったとされる写真もテレビ初公開するそうです。
【画像】山口小夜子の晩年は生涯独身!|12月6日放送「爆報!THE フライデー」
山口さんは世界で活躍した日本人モデルの先駆者で、
国内でも大手化粧品会社と12年もの間専属契約を結んでいた売れっ子モデルでした。
山口さんといえば資生堂のCMが有名ですよね。
切れ長の目とおかっぱ頭で
モデルのオーディションを受けるたびに、
「髪を染めてパーマをかけて、外国人メイクをしなさい」と言われていたそうですが、
日本人女性の美しさを捨ててまでもモデルになりたくない
と自分らしさを捨てることはしなかったといいます。
山口さんは“日本美”に強いこだわりをもっていたそうです。
晩年は、音楽や映像、ファッション、ダンスなどを組み合わせた
総合芸術的なパフォーマンス活動をしていました。
映画「利休」(1989年)や「ピストルオペラ」(2001年)のほか、多数の舞台にも出演しています。
山口さんは仕事には常にストイックなイメージで、
そのためか、結婚することなく生涯独身を貫いたそうです。
山口小夜子の死因は急性肺炎で孤独死?
そんな山口さんですが、2007年8月に57歳という若さで突然この世を去りました。
関係者によると、17日夜、1人で暮らす東京都港区内の山口さんの自宅を訪ねた知人が部屋で倒れているのを発見。救急車で運ばれたが、病院で死亡が確認された。すでに14日に死亡していたとみられる。
(引用:http://kiraraf.jugem.jp/?eid=126)
知人が発見したときには、すでに死亡時刻から3日も経っており
生涯独身を貫いたため最期は1人で誰にも気づかれないまま急性肺炎で亡くなりました。
ネットでは“孤独死”だという意見もありました。
そう言えば山口小夜子も孤独死だったな(T_T)
— 黒塔ぼっちゃま (@BlackTower_B) February 21, 2016
山口小夜子は肺炎で孤独死した。僕も今、一人で風邪ひきなので、多少は近づけたかな。いや、彼女は肺炎だけど、僕は単なる鼻炎だ。
— 保山ひャン (@hozanhyan) November 14, 2018
そういえば数年前だったか山口小夜子さんが孤独死してたというのがありましたよね
— はとほるちゃん (@hathol_chan_) November 17, 2013
息を引き取ってから数日経って発見されたため、
当時は“孤独死”と騒がれていました。
しかし、山口さん最後の出演作品となったのは映画『馬頭琴夜想曲』 木村威夫監督は
一週間前に会ったとい「体調が悪い様子はなかった」と語っています。
なので実際は山口さんにとっても予期せぬ死だったのかもしれません。
山口小夜子の生前最後の写真は?
『爆報!THE フライデー』では山口さんが亡くなる前に接触した写真家がいるそうで
生前最後の写真がテレビ初公開されます。
一体どんな写真なのでしょうか?
山口さん最後の写真がこちら。
山口小夜子 生前最後の写真
これで57歳はエグい pic.twitter.com/yk1v94HdnE— 暗黒面(dark side)に堕ちた 正義の反逆者 (@justice_traitor) December 6, 2019
最後の写真を撮影したのは写真家の下村一喜さん。
下村さんは2006年に山口さんから写真撮影の依頼をされました。
「山口さんからお電話をいただいて、『突然ごめんね。来週、撮影をお願いしたいんだけど』と言われた」という下村氏。雑誌か何かの撮影かと思ったが、山口さんが個人的に撮影してほしいという異例の依頼だった。
(引用:https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12265-490662/)
ちなみに山口さんが着用している黒いベルベットの服は、山口さん自身が作ったもので
撮影時間はわずか10分程度だったそうです。
山口さんが亡くなったのはそれから約10ヶ月後。
原因は急性肺炎だったため、このときすでに発症しているなんてことはなく、
撮影時の山口さんの様子を
あの写真が最後になったということには驚かなかったです。常に死というか、あの世とこの世のはざまのような美しさなんです
と下村さんは語りました。
山口小夜子プロフィール
生年月日:1949年9月19日
没年月日:2007年8月14日
出身地:神奈川県横浜市
身長:170cm
山口さんは京浜女子大学横浜高等学校、杉野学園ドレスメーカー女学院に通い
1971年にモデルとしてデビューしました。
高田賢三や山本寛斎のショーで注目を集め、翌年の1972年には
パリコレクションに起用され、ニューヨークコレクションにも出演しました。
切れ長の目と黒髪のおかっぱ姿は海外では熱狂的な支持を集め
「SAYOKO マネキン」というマネキン人形が欧米のブティックを席巻したほどです。
モデルを辞めたあとは、ウェアリスト(着る人)」と名乗り、
自らの身体において、ファッションだけでなく、ダンスや舞、音楽、映像、文学など
芸術が交錯する表現を展開しました。
2007年8月14日に急性肺炎で亡くなり、8年後の2015年に東京都現代美術館にて、
山口さんの生涯と携わった作品群を回顧する、「山口小夜子 未来を着る人」が開催されました。
死後から約8年が経過していましたが、入場者数5万5千人。
最終日だけでも3000人を動員、大盛況のうちに幕を閉じ、
山口さんの生き方は多くの人に支持されていたようです。
山口小夜子の晩年 まとめ
山口小夜子さんの晩年についてまとめました。
山口さんは生涯独身を貫き、最後は誰にも気づかれないまま急性肺炎で亡くなりました。
孤独死だとも言われていますが、あまりに急死で発見が遅れたため、そう言われているようですね。
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